逓信舍

デジタルアーカイブ

「賢治のカレー」プロジェクト


賢治のカレーがレトルトになりました。

賢治のカレー

★ 1個800円(税別)。千成亭の橋本店・平田店、花しょうぶ通り商店街の街の駅「戦國丸」、夢京橋キャッスルロードの「夢京橋あかり館」で販売しています。

DADAジャーナル掲載記事

http://dada-journal.net/culture/articles/1192/

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「モガ」と「モボ」、その言葉が流行っていたころのことを僕らは知らない。初めてその言葉を聞いたときの文脈から、「モッズ」から派生した何かのように随分長い間思っていた。

「モガ」と「モボ」は、大正末期から昭和初期の「モダンガール」「モダンボーイ」、今風に言えば「イケてる」若者たちのことだ。この時代「彦根の町にもカフェーや食堂ができた。特に、学生たちを対象とする食堂が多くなり、観光の発達にともなって一般に外食が行われるようになった。当時のモボたちは、毎日のようにこれらカフェーや食堂に出入りし、一軒だけでなく何軒も歩いてまわったのである」(彦根市史・1962年)。「四番町(現中央町など)から土橋・川原町(現銀座町など)にかけて、女給が働くカフェが乱立した。昭和7年(1932)には、彦根町に29軒のカフェがあり、一年間に彦根町全人口の4倍にあたる10万8420人が来店」(新修彦根市史・2009年)したらしい。「一軒だけでなく何軒も歩いてまわった」「29軒のカフェ」のフレーズは僕には想像できない都会のようである。
彦根初となる西洋料理店「金亀食堂」は大正11年(1922)6月18日オープン。オーナーシェフは谷澤賢治という。賢治は明治27年(1894)に犬上郡福満村で生まれた。神戸で西洋料理の修業をし調理師となり、列車食堂(日本食堂)のコックを務めた後、彦根に戻り開業(橋本町)。料理講習会で料理やテーブルマナーの講師をするなど西洋料理の普及に努めた人物だった。「金亀食堂」のオープン以降、西洋料理の店やカフェが相継いでオープンすることになる。
二代目は賢治の長男一豊。京都の都ホテルでフランス料理の修業を積んだ後、家業を継いだが日中戦争で戦死。実際に金亀食堂の二代目となったのは、賢治の末娘の幸子と結婚した盛だった。一豊が修業時代に記した一冊のレシピノートが残っており、そこに金亀食堂のカレーレシピが都ホテルのレシピと共に記されていた。
このレシピを基に金亀食堂のカレーを復活しまちづくりの一助にと始まったのが『賢治のカレープロジェクト』だ。滋賀大学経済学部のボランティアサークル「enactus(エナクタス)」と彦根花しょうぶ通りにある逓信舎で活動する「デジタルアーカイブ部」がプロジェクトを推し進めた。
2013年、彦根初の西洋料理店のカレーレシピの調理工程の再現を試み、現代の人々にかつてのカレーを周知及び親しみをもっていただくための計画を模索。
2014年、プロジェクトチームが作ったカレールーを用いて3月21日、逓信舎で「賢治のカレーコンテスト」が行われた。50人に試食してもらい味を競った。彦根市内4店舗と「エナクタス+デジタルアーカイブ」チームが参加。一位となったのは、盛さん幸子さんのアドバイスを得ながら作られた「エナクタス+デジタルアーカイブ」のカレーだった。
2015年、近江牛の千成亭の協力を得て、『賢治のカレーコンテスト』で一位となったカレーレシピを基にレトルトパック化が実現する。数度の試作を繰り返し、5月1日『賢治のカレー』として販売が始まった。
モガ、モボ時代のカレーの復活である。
プロジェクトメンバーは「まず、6月13日14日に花しょうぶ通りで行われるアートフェスタの時、逓信舎で披露したい。賢治のカレーを使ったイベントも計画していきたい。残念なのは、谷澤盛さんが賢治のカレーの完成を待たずにこの世を去られたこと。是非、食べていただき感想をお聞きしたかった」と話す。
過去と未来は一冊のレシピノートでずっと繋がっていくのだ。(DADAジャーナル)